policy(ポリシー)の最新情報を確認しよう

【青天を衝け】吉沢亮演じる渋沢栄一・民間主導の近代化をめざした彼の原点【温故知新】

URLをコピーする
URLをコピーしました!
目次

渋沢栄一・民間主導の近代化を志向した彼の原点

今、最も注目が集まりつつある歴史上の偉人は誰だろうか。

それは、渋沢栄一だ。

彼は「日本近代経済の父」と称され、関わった社会・公共事業は600以上に及ぶなど、彼の功績は計り知れない。中には現在にも引き継がれている組織も多くあり、今もなお日本経済に大きな影響をもたらしていると言えよう。

渋沢栄一は、吉沢亮主演の2021年度のNHK大河ドラマ「青天を衝け」で主役として取り扱われる予定である。これに留まらず、新一万円札の肖像となることも決定。ここにきて彼の存在に再び注目が集まりつつある。

今回はそんな元祖偉人・渋沢栄一について見ていこう。
彼を知ることで、私たちが生きるこの社会への理解もきっと深まるに違いない。

黎明期・渋沢栄一出生

渋沢栄一は後に第一国立銀行の頭取となり、上記の通り600以上の社会・公共事業の設立支援を行うこととなる。
特筆すべきは農民出身であるにも関わらず、士族さながらの出世を果たした彼の生い立ちだ。
その秘密の一端を、彼の出自から垣間見ることが出来る。早速紹介しよう。

渋沢は1840(天保11)年に、武蔵国血洗島(現在の埼玉県深谷市)にて生れた。もともとここは特段豊かな農村ではなかった。しかしながら、関東に入国した徳川家康が戦国期の争乱をおさめ、江戸時代は比較的平穏であったと言われている。

血洗島のあたりは領主等々の支配構造が安定しており、飢饉や打ち壊しが少なかった。このことも、平穏な時代であったことの理由とされている。

また、中山道の宿場町・深谷宿や、利根川水運の中継地点であった中瀬河岸場があり、血洗島周辺は交通の要衝であった。

つまり、平穏な時代であり交通結節点として栄えた渋沢の故郷は、農家の経営を発展させるには最適な場所だったのだ。

渋沢の一家は村内で一番古い家系。しかし、村内の中心的立場ではありながら、代々小農家であり、お世辞にも裕福であるとは言えなかった。

しかし栄一の父親の代で、藍を仕入れて藍玉に加工し、江戸の商人を介さず群馬、長野、秩父の紺屋に販売するという事業を開始。その新しいビジネスにより、村内で一、二を争う富農へと成長する。

士農工商と身分が固定されたこの時代に、農民が「商人ビジネス」をはじめ、一代にして財を築いたのである。これには先進的であると言わざるを得ない。

そして、積極的に商いに乗り出す父親の背中を見て育った栄一。彼ののちの「商売人」としての気質は、この時に養われたと言っても過言ではないだろう。普通の農民とは違う視点から社会を眺めるようになった訳である。この点で、栄一は普通より恵まれていたのかもしれない。

また、特殊な出自といえば他にもある。親戚である尾高家から四書五経書法など、普通の農民であれば享受できない教育を彼は受けることが出来た。
幼年期に高度なリテラシーを身に着けることが出来たことが、彼の生涯にどう影響したかは最早言うまでもないかもしれない。
「教育」の重要性は現代においてもしきりに叫ばれるが、まさに彼の人生はその最適例ではないか。

農民から幕臣へ、類まれな出世劇

リテラシーを身に着けると、情報感度が上がる。

彼は本格的に学問を志すようになる。1853年にペリーが浦賀に来航しているが、同時期に渋沢も江戸に出て学んでいる。社会情勢が不安定な時期だ

そこから、彼は次第に尊王攘夷運動に加担するようになる。「1863年には栄一も150両ほどの資金で槍や刀など100本ほど揃え―総勢70人ほどで高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを計画した(雨夜譚)」

単なる農村の一青年であった渋沢は、学問に励み、当時としては画期的なビジネスモデルから商業の可能性にいち早く目をつけた。
更には尊王攘夷運動を行い、当時の封建社会制に対しての不満を持つようになった

しかしながら、次第に攘夷の実現可能性に疑問を抱くようになる。
攘夷運動は確かに、実現性が極めて低かった。例えば薩摩藩が薩英戦争でイギリスの軍事力を思い知り、開国派に転じた話は有名だ。

そこで渋沢は一橋家の用人であった平岡円四郎のつてを頼り、尊王思想から一転して幕府側である一橋家の家臣となる。

一橋(徳川)慶喜。一橋家当主。江戸幕府15代目にして最後の征夷大将軍。大政奉還により政権を朝廷に移譲した。

農民出身の為最初は軽輩(下の身分のもの)として加わったものの、渋沢のその能力は高く評価され、最終的には、慶喜の弟、徳川昭武に随行してパリ万博の視察団に加わるという出世を果たしている。

余談だが、彼の出世劇は冷静に考えてもすさまじいものがある。元々一農村出身の青年でしかなかった彼が、幕臣となり、外国視察すら任されている。

外国視察の目的は列強諸国の先進知識収集であるが、途方もない費用がかかる。もちろん飛行機などない時代。いつ沈むともしれない木造船でヨーロッパを目指すのである。しかも外国との交流を一切絶っていた日本から。並みの人間には到底任せられない。「本当に賢く、やり遂げる器量のある人間」にしか成し遂げられない大役だ。

『民が栄えてこその国』彼の社会観形成

さて、パリ万博で渋沢が目にした欧米列強の近代化の進展具合だが、これは彼にとっても非常に衝撃的であった。
近代的軍事技術の展示のほかに、渋沢は鉄道によって結ばれた欧州全体の発展に強く感銘を受けた。
アヘン戦争で清国が敗北し、欧米列強が植民地支配を益々進めようという段で、当時の日本の士農工商幕藩体制といった旧態依然とした部分や、産業構造の未熟さに改めて限界を感じたに違いない。

 

振り返れば、渋沢は父の代から藍玉のビジネスを行っていた。それは作物を栽培するだけの旧来の農民の枠を超えていた。
また江戸の商人を介さず直接遠方と取引を行うなど当時としては画期的であった。

これらのことが、のちの渋沢の民間主導の国家観、言い換えれば市民による積極的な資本主義経済への参加を後押しする姿勢につながっていると言えるのではないだろうか。

また、立身出世を地で行く彼には、身分固定社会は滑稽に映っただろう。
資本主義は、実力主義だ。皆が競い合ってこそ、文明が花開く。
彼はきっとどこかでそう確信していたのではないだろうか。

第一国立銀行

渋沢は大政奉還後、慶喜について駿府にわたり、その後大隈重信の再三の頼みで明治新政府の仕事をするようになるが、最終的には民間に下り、第一国立銀行を創設するに至る。そして、資本主義社会を後押しする為、600もの社会・公共事業に関わった。

名前を変え、形を変え、今にも残る会社もある。彼の功績は、今に生きている

さいごに

渋沢が生きた時代は、我々のそれとは大きく違う。単純比較は出来ない。また彼は一般的な農民に比べ、遥かに恵まれた環境に生まれ落ちた。そのことは否定されるべきでない。

しかしながら、彼の人生から我々が学び取れるものは計り知れない。それが具体的に「何か」はここでは明示しないでおく。

現在、急速な国際化デジタルトランスフォーメーションにより、5年先の未来すら分からない時代に突入しつつある。
そんな変化の時代において、渋沢栄一から学び取れるものは、何だろうか。

島田昌和(2011年)『渋沢栄一 社会起業家の先駆者』岩波新書

あわせて読みたい
サルでもわかる「明治維新」の流れ
サルでもわかる「明治維新」の流れ【温故知新 U25歴史講座:「明治維新」】①討幕運動皆さんご存じの通り、江戸時代の日本は鎖国状態にありました。そんな中で、1853年にペリーが黒船で浦賀に現れ、江...

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
URLをコピーする
URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次
閉じる