コラム

ゼロから学ぶ宮城事件 75年前何があったのか(By 太田一希)

ゼロから学ぶ宮城事件

終戦直前に起こった宮城事件。陸軍将校が宮中を占拠し、玉音放送の阻止を計画しました。徹底抗戦を求める陸軍将校たちはいったい何をしたのか。宮中の占拠から、首謀者の自決までを徹底解説!
終戦の日に、75年前の事件について学び、日本の未来の平和のためには何ができるのか考え直すきっかけにしましょう。

宮城事件とは

宮城事件とは、終戦反対事件とも、八・一五事件ともいわれる、陸軍の中堅幹部が兵力を使って宮城に侵入し、昭和天皇の終戦の詔書の放送を阻止して、抗戦を継続させようと企てた事件である。

主要人物

昭和天皇
鈴木貫太郎首相
阿南惟幾陸軍大臣
米内光政海軍大臣
東郷茂徳外務大臣

陸軍部
・梅津美治郎参謀総長
・白石通教中佐(殺害
・井田正孝中佐(首謀)自決断念
・椎崎二郎中佐(首謀)失敗後自決
・畑中健二少佐(首謀)失敗後自決

近衛第一師団
・森赳中将 近衛第一師団 団長(殺害)
・石原貞吉少佐 近衛第一師団 参謀(殉職)
・古賀秀正少佐 近衛第一師団 参謀(関与自決)
・芳賀豊次郎大佐 近衛歩兵第二連隊長

背景

1945年(昭和20年)、6日の広島への原爆投下、9日未明のソ連の対日参戦、同日の長崎への原爆投下を受けて、政府内ではポツダム宣言(7月26日に米中伊政府首脳の連名で日本に対して表明した、降伏を勧告する共同宣言)の受諾による降伏を支持する意見が強まっていた。
9日に宮中において開かれた最高戦争指導会議(政府側の戦争の根本方針の決定を目的とする会議)では鈴木貫太郎首相・米内光政海軍大臣・東郷茂徳外務大臣らが天皇の地位保障(国体護持)を条件とする降伏を主張した。
鈴木貫太郎首相はその後、天皇臨席の御前会議を開いた。そこで鈴木貫太郎首相からの聖断(天皇の決断)要請を受けた昭和天皇は東郷茂徳外務大臣が示した降伏案に賛成し、ポツダム宣言受諾が決定された。

ポツダム宣言受諾決定を受けた陸軍内の動揺

御前会議での決定を受けた陸軍省では徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こった。
ポツダム宣言には、「全日本軍の無条件降伏」という項目があり、陸海軍の存亡の危機に立っていた。
12日には、日本政府の国体護持を条件とする降伏の意向に対し、連合国側は「天皇と日本政府の国家統治権限は、連合国の最高司令官に従う」と回答。
その回答を受けた12日の閣議・13日の最高戦争指導会議では、阿南惟幾陸軍大臣・松阪広政司法大臣・安倍源基内務大臣が最後までポツダム宣言受諾に反対した。阿南陸相は陸軍内のクーデターに向かう将校らの反発心をを抑えるために、自らの意見とは異なる戦争継続を内閣で訴える。
会議はまとまらなかったが、連合国の回答を受諾することが決まった。

ポツダム宣言・連合国の回答の受諾に反対する将校の行動

連合国の回答を受諾することを聞いた6名の将校(軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐)は阿南惟幾陸軍大臣に面会を求めた。そこで、クーデター計画である「宮城事件」への賛同を求めた。
その計画では、東部軍及び近衛第一師団を用いて宮城の隔離、鈴木首相・木戸幸一内大臣府・東郷外相・米内海相らの政府要人を捕らえて戒厳令(軍隊に行政・司法の一部の権限をゆだねるという指令)を発布し、国体護持を連合国側が承認するまで戦争を継続することが記されていた。
阿南陸相は「梅津参謀総長と会った上で決心を伝える」と賛否を明言するのを避けた。

森赳近衛師団長の殺害

近衛第一師団長で宮城(皇居)の警備にあたっていた森赳近衛師団長はこの事件により、命を落としました。義弟の第二総軍参謀白石通教中佐と会談中であったところに、井田正孝中佐と椎崎二郎中佐が強制的に訪問。
森赳近衛師団長は、井田中佐・椎崎中佐に宮城事件への参加を求められ、否定的な態度を示していたが、「明治神宮を参拝後に決断する」と言って約束を交わし即断を避けた。それを聞き、腹を立てた畑中少佐はいったん部屋を出たが、畑中中佐は上原重太郎大尉・窪田兼三少佐を引き連れて、再度入室する。畑中少佐は無言のまま森師団長を拳銃で撃ち、さらに上原大尉が軍刀で斬殺した。同席していた白石中佐も上原大尉と窪田少佐によって斬殺された。

宮中占拠

2人の殺害後、畑中少佐は師団命令を偽造し、近衛歩兵第二連隊を使って宮城を占拠した。また、昭和天皇の玉音放送を阻止するために放送会館へは近衛歩兵第一連隊を差し向けた。宮内省では、電話線の切断や皇宮警察(宮内省を警備する警察)の武装解除などが行われた。
森近衛師団長や阿南陸相にクーデター計画への参加をことごとく断られていた畑中少佐たちは、大規模なクーデター計画が無理と悟って、昭和天皇の玉音放送を阻止する方向へ方針転換する。

玉音放送阻止に失敗する

宮中を占拠している間に、北村信一大尉や佐藤好弘大尉たちは昭和天皇の放送が録音された玉音盤を探し回りました。しかし、既に徳川義寛侍従によって、皇后宮職事務室へと移されていたため、「宮城事件」の首謀者たちが玉音盤を手にすることはなかった。

宮城事件の鎮圧

午前5時頃、東部軍の田中軍司令官が数名のみ引き連れ、自ら近衛第一師団司令部へと向かい、偽造命令に従い部隊を展開させようとしていた近衛歩兵第一連隊の渡辺多粮連隊長を止めた。これにより、森師団長が殺害された事実を芳賀豊次郎大佐が知った。師団命令が畑中少佐らの偽造であることが分かった芳賀豊次郎大佐は畑中少佐に宮中からの退去を求めた。
放送会館では決起放送を行おうとしていた東部軍からの電話連絡により畑中少佐が放送を断念し、守衛隊司令部では拘束されていた下村情報局総裁らが解放された。

その後

最後まで抗戦を諦めきれなかった椎崎中佐と畑中少佐は宮城周辺でビラを撒き決起を呼び掛けた。しかし、抗戦ができないことを悟った2人は自決をした。また古賀参謀は玉音放送の放送中に近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の遺骸の前で拳銃と軍刀を用い自決した。古賀参謀については「宮城事件」に積極的に参加していたのではないという説もある。

正午には、国歌である君が代が流された後に昭和天皇の「大東亜戦争終結ノ詔書」が無事に放送されて、日本の降伏は全国民に知らされることとなった。

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太田一希
太田一希
2001年愛知県西尾市生まれ。神戸大学経営学部一回。政治については勉強中。受験勉強を通して、教育の理不尽さに気づく。それを変えるには、政治的アプローチも必要と思い、政治に興味を持つ。大学生の間に学びたいことは、会社経営・経済学・教育学。政治にあまり詳しくない、ライト層がもっと政治に参加できるような環境づくりの推進を目指し、活動中。政治に興味を持ったのは最近で、知識も浅いですが、この活動を通して、皆さんと一緒に学んでいきたいです!!よろしくお願いします!

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