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アメリカ合衆国大統領 リンカーンの目指した民主主義とは(By Sho)

エイブラハム・リンカーン

温故知新 U25歴史講座:「エイブラハム・リンカーン」

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出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

名前
エイブラハム=リンカーン

生きた年代(死没した年齢)
1809~1865

性別

出生地
アメリカ合衆国 ケンタッキー州

死没地
ワシントンDC

地位、称号、階級
アメリカ合衆国第16代大統領

親族
メアリー=トッド=リンカーン (配偶者)
ロバート=トッド=リンカーン (息子)

同時代に活躍した人物
勝海舟(武士、政治家)
土方歳三(新撰組)
徳川慶喜(江戸幕府第15第征夷大将軍)
明治天皇
ルイ=ナポレオン(ナポレオン=ボナパルトの甥)
ペリー(アメリカ海軍軍人)

パラメーターで分析「エイブラハム・リンカーン」

政治力4

 リンカーンの政治家としての政策の中で最も有名なのは、奴隷制度に対する者である。州議会議員時代、彼は奴隷制度に反対しながらも、奴隷制度即時廃止論にも反対していた。州によって相違があることを認めていたのである。その後、カンザス=ネブラスカ法の成立によって奴隷制度反対派のリーダーとなるわけであるが、その際には共和党の意見をまとめあげ、死後、合衆国の修正憲法に「奴隷制の廃止」という文言を挿入させることに成功している。

人望5

 建国以来、国王制を採用していないアメリカ合衆国にとって大統領とは、いわば国家元首である。リンカーンは親族が政治家であったわけではなく、彼自身も若い頃は様々な仕事を転々としながら独学で弁護士資格を取得し、さらに政治家として大統領まで登りつめた。彼の人望に満点をつけることに異論はないだろう。

指導力5

 アメリカ合衆国大統領は、軍部の最高責任者もかねている。その最高責任者として南北戦争に勝利した。この戦争の勝利は、奴隷制度の廃止という道徳的、倫理的な観点から評価されているのはもちろんであるが、今日世界に大きな影響を与えているアメリカ合衆国の存続を守ったという点でも評価されている。

知力4

 大統領選挙の共和党推薦候補に選ばれる際、対立候補の主張の矛盾を巧みに突いて見事勝利した。リンカーンの頭の回転の速さを象徴する瞬間であった。また、大統領になる前に彼は独学で法律の勉強をし、イリノイ州で弁護士資格を取得した。

演説5

 リンカーンと聞いて真っ先に「of the people, by the people, for the people」というワードを思い浮かべる人もいるだろう。これはゲティスバーグ演説の一部であるが、彼の言葉は自軍を鼓舞し、人々のモチベーションになっただけでなく、敵軍内部の不満をもつ人々までをも魅了した。エイブラハム=リンカーンの言葉は、それほど大きな力を持っていたのである。

政界へ進出するまで 

 1809年2月12日、トーマスとナンシーのリンカーン夫妻の間に男の子が誕生した。彼は、エイブラハムと名付けられた。後にアメリカ合衆国大統領となったエイブラハム=リンカーンである。ケンタッキーの田舎で生まれ、家族とともにインディアナへ、そしてイリノイへ移り住んだ。

 大人になった彼は独り立ちし、店員や粉屋の作業員、郵便局長を勤めながらもホイッグ党員としての政治活動を行った。1832年のイリノイ州議会選挙には敗れたが、2年後の1834年の選挙で当選し連続4期議員を勤めた。同時に彼は独学で法律の勉強をはじめ、1836年にイリノイ州で弁護士資格を取得した。翌年スプリングフィールドで弁護士事務所を開業し、弁護士としても活躍をした。一方、1830年代はアメリカ南北の溝が次第に深まっていった時期であったが、当時、奴隷制についてリンカーンは公的な発言はしていなかった。

北部自由州vs南部奴隷州

 アメリカがイギリスから独立して以降、工業で発達した北部自由州に対して、南部自由州は奴隷を酷使して大農園を展開していた。徐々に深まっていく両者の溝は、1850年代には妥協点のないところまでに達していた。その発端は、1840年代に獲得した西方の新しい領土に対して、奴隷制の拡大を認めるか阻止するかを巡る論争であった。

 1820年のミズーリ協定によって、ミズーリ準州(1803年にフランスから購入したルイジアナの一部)を奴隷州として州に昇格させる代わりに、以後北緯36度30分以北のルイジアナ地域については奴隷州を作らないと定められていた。1840年代末の時点では、自由州15:奴隷州15と均衡を保っていたのだが、カリフォルニアが自由州としての連邦への加盟を望んだためにバランスが崩れた。

 リンカーンは南部の奴隷制については容認していたが、その動きが北部の自由州にまで及ぶことには反対していた。南部諸州の奴隷制を認めたのは、奴隷即時廃止を訴えれば混乱を招くと考えていたからである。

 1854年に成立したカンザス=ネブラスカ法により、南北の対立はさらに激化することとなった。この法律は、ミズーリ協定を否定し、新たに連邦に加わる州が自ら自由州か奴隷州か選択できるとする者である。ほぼ同時期に、最高裁判所がミズーリ協定を違憲とし、自由州でも奴隷の所有を認めたドレッド=スコット判決を下した。これらは、黒人奴隷制拡大を支持する南部の大農園主を支持基盤とする民主党のブギャナン大統領任期(1861年〜1865年)の下で下された者である。

 一方、奴隷制度に反対していた自由州の政治家たちは、この動きに対抗するために共和党を結成した。当初奴隷即時廃止論にはあまり肯定的でなかったリンカーンも共和党に加わった。彼は、カンザス=ネブラスカ法の成立で目が覚めたと語っている。以後、彼は西部諸州での奴隷制禁止を訴えるスピーチを6年間で175回行った。

 1859年、奴隷解放は武力によってしか達成できないと確信した奴隷制即時廃止論者(アボリジョニスト)のジョン=ブラウンが、20名ほどの仲間とともにヴァージニア州(奴隷州)の、連邦が管理する武器庫を襲撃し一時占拠した。この蜂起はすぐに鎮圧されたが、北部では彼を讃える声も上がり、南部は奴隷反乱を恐れていたためにますます態度を硬化させていった。

 このような緊迫した状況下で、1860年、アメリカ合衆国大統領選挙が行われたのである。

大統領誕生と南北分離

 1860年にアメリカ合衆国大統領選挙が行われた。民主党は完全に分裂し、北部派はスティーブン=ダグラスを、南部派はジョン=ブレッキンリッジ(当時の副大統領)を指名した。保守的なホイッグ党や州境の穏健派などを集めて結成された憲法統一党は、テネシーを基盤にもつジョン=ベルを候補者に指名、共和党の候補者にはエイブラハム=リンカーンが選ばれた。選挙では、民主党の候補者は票を2分し、ベルは自由州、奴隷州の境界3州で勝利を収めた。当選したリンカーンは、南部9州では全敗であったが、北部では全ての州で勝利した。これこそが、当時の南北の対立を象徴していると言えよう。

 リンカーン当選の場合には連邦を離脱すると公言していた南部諸州は、次々と合衆国を離脱していった。サウスカロライナ、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスが合衆国を離脱し、アメリカ連合国を結成した。大統領にはジェファソン=デヴィスが選出された。南北戦争勃発後にはアメリカ連合国の構成州は11にのぼっていた。(ヴァージニア、アーカンソー、テネシー、ノースカロライナが加盟)

 リンカーンの当選から就任式までの4ヶ月、ブギャナン政権は分離への動きを阻止することはできなかった。南部諸州の離脱を避難したものの、当時彼の信用はほとんどなく、その発言も効力がないに等しかったのだ。

アメリカ史上唯一の内戦

 1861年、南部諸州がほとんどアメリカ連合国に加盟する中、サウスカロライナ州(アメリカ連合国加盟州)のサムター要塞の司令官ロバート=アンダーソンはアメリカ合衆国に忠誠を誓うと宣言した。敵地にありながら忠誠を誓ったサムター要塞の部隊に対して、リンカーンは、サウスカロライナ州知事に食料と水を補給する旨を告知した。州知事はそれを南軍(アメリカ連合国)の指揮官に報告した。南軍の判断は「サムター要塞の即時引き渡しに北軍が応じなければ、制圧せよ」というものであった。北軍は引き渡しを拒み、南北戦争が開戦した。

 戦争初期、両軍ともに戦争の準備は全く万全ではなかった。特に、南軍は新しく作った国の政府機能を1から創設しなければならなかったた、すでに政府機能が確立していた北軍の方が優位であった。また、北部は中央集権体制をとっていたのに対し、南部はそれぞれの州権が強く、加盟州の意見をまとめるのにジェファソン=デヴィス大統領は苦戦していた。加えて、北部の方が人口が多く、鉄道も発達していたために物資の補給も比較的容易であった。一方で優秀な軍の幹部が多く合衆国を離脱し南軍に加わったことは、南軍のアドバンテージであった。

 1861年5月、南部同盟政府は、首都をアラバマ州モンゴメリーからヴァージニア州リッチモンドに移した。鉄道路線の交通度が高かったことや、北部よりの地域の防衛に力を入れることで、連合国全体にヴァージニアの重要性を訴えることが目的であったと考えられる。南北戦争の主戦場は北部の首都ワシントンから、南部の首都リッチモンドを隔てるおよそ100マイル(160km)であった。

 南北戦争の大半は、両軍が向き合っての待機合戦であったとされている。そんな中、最初の主要な戦闘が起きたのは1861年7月のことである。北軍37,000人が、南軍35,000に攻め込んだ。南軍が押し返し、北軍は退却を余儀なくされたのだが、戦闘慣れしていない兵士の中にはパニックに陥り南軍へ突っ込んでいく者もいた。彼らは、この戦争が早期決着に終わると考えており、ワシントンから戦争の光景を眺めようと気楽な気持ちで参加していた。

リンカーンの目指す民主主義を守ったアメリカ合衆国

 次の大きな戦いとなった半島開戦では、北軍が南軍の首都リッチモンドまで後一歩のところまで肉薄した。マクレラン率いる北軍が南部への上陸作戦を実施した。軍編成において素晴らしい裁量を発揮したマクレランであったが、自軍が優勢であったのにも関わらず小勢であると思い込み、軍を極めて慎重に進軍させた。その様子に苛立ったリンカーンは、マクレランに攻撃を要請したが、彼はそれでも牛歩的な戦術を曲げなかった。

 一方、デヴィス大統領にヴァージニアでの南軍野戦指揮官に任命されたロバート=E=リーは、マクレランが敵勢力を過剰評価しがちなことを認識しており、南軍が先に攻撃を仕掛けた。北軍の将軍の中には、リー率いる南軍にはわずかな手数しか残っていないと言う者もいたが、マクレランはリスクを恐れて退却を命じた。リッチモンドまであと6マイルのところまで迫っていた。また、この戦いは「7日間戦闘」とも呼ばれた。

 南北戦争での最大の戦いと言われているのが、ゲティスバーグの戦いである。南軍は、北部地域を戦場に巻き込み、講和に持ち込むことを狙っていた。南北戦争のクライマックスとなったこの戦いは、1863年7月1日からの3日間で決着がついた。南軍のある部隊が、軽武装の民兵だと勘違いして北軍の部隊に攻め行ったことで始まった。民兵だと勘違いした部隊は、たまたま下馬していただけで実はライフルで武装した北軍の騎兵隊だったのだ。この出会い頭の偶然の戦闘が、一瞬にして多くの部隊を巻き込む決戦となり、南軍のリー将軍自身も主要な戦闘に引きずり込まれたのであった。3日間、南軍は大きな犠牲を出しながらも北軍を崩すことはできず、本拠地の南へと後退して行った。

 この戦いで勝利した北軍の士気は著しく高まり、一方で南軍の士気は間違いなく低下して行った。北部はゲティスバーグの戦い以降、経済が上向きとなり、鉄砲、弾薬、軍服などの軍需品も大量に生産していった。

 1864年、グラントがリンカーンに任命され北軍の指揮官に就くと、会戦で負けていても完全撤退せずに敵地に残ってそのまま粘り続けるというこれまでの将軍とは異なる戦法をとった。アメリカ西部での戦いについては、グラント将軍から引き継いだウィリアム=シャーマンがその有能ぶりを発揮し、アトランタ方面作戦で次々と南軍を破っていった。

 軍の士気も下がり、連戦で大きなダメージを負った南軍は再び盛り返すことなく1865年4月3日、ついにリッチモンドが陥落した。9日にはリー将軍が降伏して戦争は事実上終結し、5月26日、最後の南軍の部隊が降伏して南北戦争は終わりを告げた。

アメリカ合衆国の再統合

 戦後、勝利した北軍の、南軍に対する報復行動はほとんどなかった。南部同盟の指導者らは、一人として銃殺刑や国外追放になることがなかっただけでなく、その多くが戦前の経歴を回復した。アメリカ連合国の大統領であったジェファソン=デヴィスは、収監こそされたものの2年後の1867年の5月には釈放された。資産が没収されることもなかった。

 このような寛容な条件での講和がすすんだのは、リンカーン大統領がそれを望んだからである。南部同盟に加わった者たちについても、アメリカ合衆国への忠誠を誓えば恩赦を認めた。

 激しい内戦後、様々な混乱がありながらも驚異的な立ち直りをみせ、アメリカ合衆国はすぐに始まる帝国主義時代とやがて始まる二つの大きな戦争を経て、世界のリーダーとしての階段を上ってゆくこととなる。

奴隷解放宣言

 アメリカ南部にはおよそ400万人の黒人奴隷が住んでいた。彼らにとって、南北戦争は、「自由」を手にするための戦いになるはずであった。北部に住む黒人はすぐに募兵となったが、南軍は当初、黒人を入隊させなかった。

 1863年1月1日、リンカーンは奴隷解放宣言を発布した。合衆国に反乱する地域の奴隷は即時無償解放されることや、黒人奴隷が逃げ出して北軍に加わった場合、すぐに自由を与えるという内容であった。南部諸州の合衆国離脱の阻止が当初の戦争の目的だったが、この宣言以降、奴隷解放が戦争の目的であると見なされるようになった。

 南部の奴隷たちは、主人の命令に背いたり、仕事の妨害をしたり、脱走したりと、南部の経済を混乱させ、北軍の勝利に貢献した。

 1865年12月に批准、成立した憲法修正第13条により、奴隷制度の廃止が定められた。イギリス人によるアメリカ入植以来続いた奴隷制度は全土で禁止されることとなった。

初めて暗殺された大統領 

 1865年4月14日の夕方、リンカーン大統領夫妻は劇場で観劇していた。22時過ぎ、27歳の俳優ジョン=ウィルクス=ブースは、数人の護衛しかついていなかったボックス席のリンカーンを狙撃した。護衛が持ち場を離れた瞬間だった。銃撃後、「暴君は常にこうなる。南部の仇は撃ったぞ。」と叫んだという。

 瀕死のリンカーンは、向かいの下宿屋に運び込まれた。彼の意識は戻ることのないまま、憲法修正第13条の成立を見届けることなく、翌朝絶命した。後に判明した事実によると、リンカーン大統領の暗殺は、数名のアメリカ合衆国の指導者皆殺しにする計画の一環であったと言われている。グラント将軍やジョンソン副大統領にも尾行がつけられた。

 アメリカ大統領が任期中に暗殺されるのは史上初めてであった。混乱の中、当時の副大統領であったジョンソンが新大統領に就任し、リンカーンの推し進めてきた政策を引き継ぐこととなった。

 望まぬ形で最期を迎えてしまったエイブラハム=リンカーン。現在、石像となった彼はワシントンDCで私たちを見守っている。

 

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