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【あいちトリエンナーレ】芸術・文化と行政の関係はどうあるべきなのか(By 太田一希)

芸術・文化と行政の関係はどうあるべきなのか

最近話題となっている大村秀章愛知県知事のリコール署名問題。その大きな争点のあいちトリエンナーレ問題で「表現の自由」「検閲」といった言葉が多く飛び交った。表現の自由や検閲の範囲はどこまでなのかをわかりやすくまとめ、芸術・文化と行政の関係はどうあるべきなのか考えていきたいと思う。

表現の自由、検閲の範囲はどこまで?

憲法第三章第二十一条では、「1集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。2検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」と書いてある。
では、表現の自由、検閲とはどういったものであるのか。

表現の自由と公共の福祉

表現の自由は、時にほかの人の基本的人権と対立することがあり、ほかの人の人権を侵害しない(公共の福祉に反しない)限り、制限をされないとされている。様々な解釈があり、一概に何が正しいとは言えない部分もある。私の中では、相手の表現・宗教・思想の批判は表現の自由として認められているが、表現すること・信仰することを批判するような表現や、特定の人種・性別に対する差別を助長するよな発言、誹謗中傷などは認められないという考えだ。

検閲とは

公権力が,表現行為ないし表現物を検査し,不適当と判断する場合には発表を禁止すること。公表以前に行う事前検閲,公表後に行う事後検閲とに分れる。(コトバンク)

私の解釈では、政府や行政機関が表現に対して、審査のうえで網羅的・一般的に禁止することを指し、行政がイベントの主催者としてある作品の掲載を判断することは、他で表現することを禁止するわけでないため、検閲に当たらないと思う。(正確には、自分の意見というよりは、橋下徹氏の意見を読んで、納得したという感じ。)

表現の自由の範囲は明確に定められるの?

私の見解ではNoだ。実際に解釈によって、意見が分かれており、ここまでが表現の自由内と明確に定めることは、難しいと言わざるを得ない。

あいちトリエンナーレ問題の概要と私の見解

そもそもあいちトリエンナーレとは?

あいちトリエンナーレの公式サイトによると、あいちトリエンナーレとは、2010年から3年ごとに開催されている国内最大規模の国際芸術祭であり、「新たな芸術の創造・発信により、世界の文化芸術の発展に貢献します。」「現代芸術等の普及・教育により、文化芸術の日常生活への浸透を図ります。」「文化芸術活動の活発化により、地域の魅力の向上を図ります。」の3つを開催目的としているようだ。

2019年には、情の時代をテーマにし、津田大介氏を芸術監督に迎えた。
ちなみに18年間愛知県に住んでいた私は、一度もあいちトリエンナーレにいったことはなく、あいちトリエンナーレの存在自体も2019年の問題が起こるまで知らなかった。

問題となった作品は?

問題となったのは「表現の不自由展・その後」の中の以下の作品。
・「平和の少女像」(元従軍慰安婦を象徴する少女像)
・「焼かれるべき絵」および「遠近を超えて」昭和天皇らしき人物の肖像を燃やす映像作品
これらの作品が、政治的メッセージ性が強かったことには多くの人が納得するだろう。日本国民の感情を害するといった主張は一理あるなというのが私の感想。

参考:河村たかし名古屋市長による声明

大村知事・津田氏は間違っていたのか?

税金を使ったイベントで、このような反日ととらえられるような作品を展示することが問題であったのだろうか。反日という点だけで、この展示が開催されたことを否定するのは、安易な考えだと思う。「表現の不自由展・その後」が目指していた、表現の自由の限界や慰安婦像の問題点を社会に提起することには、一定の社会的意義があり、芸術として評価されるべきと私は思う。

愛知県民の総意として、大村知事はやめるべきというなら、リコールされても仕方ないと思うが、個人の意見としては、指摘された後の対応・発言に不適切な点があったにせよ、大村知事をリコールする必要性はないと考える(あいちトリエンナーレの問題だけを争点にするなら)。

むしろ、有名な論客を集めて、大村知事をやめさそうとしている風潮を冷めた目で見ている人が、愛知県民のマジョリティーなのではないかとも思う。

行政は芸術文化にどのようにかかわっていくべきか

当然のことながら、すべての作品にはお金を出すことはできない。すべての作品にお金を出さずに、市場原理に任せるという考えもできるが、私の立場としては、人間を人間たらしめるものとして文化・芸術・スポーツ・音楽などに公金を使うことには賛成だ。

そうなると、どこかで線引きをして、公的な支援を受けられる作品・受けられない作品を分けなければならない。誰がどのように判断するのか、これらの判断基準を明確にしていくことが求められる。判断基準が橋下徹氏が提唱する「手続き的正義」に基づくものであるべきというのが、今のところの私の意見である。

「手続き的正義」とは表現の「内容」で判定するというよりも、「手続き」をきちんと踏んでいるかどうかで判定するアプローチで、政治的な表現を公金を使って支援するようなときは片方に偏らず、双方に表現のチャンスが与えられているかを重んじるという考えだ。
、今回のあいちトリエンナーレ問題をきっかけに多くの人に感じてもらいたい。

この問題を、反日かそうでないかの議論で終わらせず、芸術文化と行政のかかわり方の根本にかかわる話だということを協調しておく。

ABOUT ME
太田一希
太田一希
2001年愛知県西尾市生まれ。神戸大学経営学部一回。政治については勉強中。受験勉強を通して、教育の理不尽さに気づく。それを変えるには、政治的アプローチも必要と思い、政治に興味を持つ。大学生の間に学びたいことは、会社経営・経済学・教育学。政治にあまり詳しくない、ライト層がもっと政治に参加できるような環境づくりの推進を目指し、活動中。政治に興味を持ったのは最近で、知識も浅いですが、この活動を通して、皆さんと一緒に学んでいきたいです!!よろしくお願いします!

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