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明智光秀~『麒麟がくる』信長を裏切った本当の理由とは~(By タカジュン)

温故知新 U25歴史講座:「明智光秀が信長を裏切った本当の理由」

明智光秀 像 明智光秀像:WikimediaCommmonsより引用

名前 明智十兵衛光秀(あけち じゅうべえ みつひで)

生きた年代(死没した年代) 
おそらく1516年(永正十三年)~1582年(天正十年)

性別 
男
出生 
美濃国(みのこく・現在の岐阜県南部)にて1516年生まれ。
(所説あり。ここでは当代記を参照)

死没
山崎の戦い(摂津国と山城国の境・現在の大阪府三島郡本町山崎にて)

所属していた勢力 土岐氏→斎藤道三→朝倉義景→幕府奉公衆→織田信長

官位
従五位下日向守(日向:現在の宮崎県)

親族
 光兼(父・光綱であるとの説もある)
光重(祖父)
玄宣(曾祖父・幕府奉公衆かつ連歌の歌人として著名)
煕子(正室)
光慶(長男)
細川ガラシャ(三女・細川忠興の正室)ほか

同時代に活躍した人物 織田信長/豊臣秀吉/徳川家康/斎藤道三/雪舟/ガリレオ・ガリレイ(伊)/マルティン・ルター(神聖ローマ帝国)/ウィリアム・シェイクスピア(イングランド)ほか


楊斎延一(ヨウサイノブカズ)の「本能寺焼討之図」楊斎延一(ヨウサイノブカズ)の「本能寺焼討之図」:WikipediaCommonsより引用

「敵は本能寺にあり!!」

―天正十年(1582年)6月2日未明。草木も寝静まったころ、織田信長は突如として家臣・明智光秀からの襲撃を受けた。一万三千もの明智軍勢は一瞬にして本能寺をとり囲み、守衛を次々と突破していく。このとき織田軍はわずか100人であり、信長にもはや勝ち目はなかった。自らの死を悟った信長は、最愛の正室、濃姫(のうひめ)とともに寺に火を放ち、腹を裂いて自害した。燃え上がる本能寺が、あかあかと京の空を染めた―

主君として忠誠を誓ったはずの信長を奇襲して自害に追いやった明智光秀。当時天下統一まであと一歩のところであった信長を陥れ、遂にその名を天下に轟かせたようにみえた。しかし本能寺の変のわずか13日後、山崎の戦いにおいて羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に敗北を喫し、その生涯に幕を閉じることとなる。この非常に短期間で終わった明智光秀の権勢は「三日天下」と揶揄されるほどだ。しかしながら、この本能寺の変によってその後の日本の歴史は否応なしに大きく動いていくこととなった。

パラメーターで分析「明智光秀」

(1)

指導力4(5段階で評価)

信長に仕えていたころの光秀は、各地の制圧を任され軍を率いることが多かった。持ち前の軍才と明晰な頭脳で多くの戦いを成功に導いた。ただし、丹波平定の際には長期におよび苦戦するなど完璧であるとは言い難い。しかしながらその指導力は非常に優れていたと言ってよいだろう。

人望4

戦国時代は動乱の世である。各地に戦国大名が群雄割拠し勢力拡大を目指してしのぎを削っていた。さながら今日の味方は明日の敵といった塩梅だ。主人、家臣を問わず騙しあいが横行したこの下克上の世で、勿論、光秀もしっかりと処世術を身に着けていた。

いくつか例をあげよう。斎藤道三、義龍に美濃の支配権を奪われ、居場所をなくしたときのことだ。光秀は主人であった土岐頼純(トキヨリズミ)の母の家系である朝倉氏を頼って美濃から越前(福井県)にうまく逃れた。そして移ったさきの越前では称念寺(ショウネンジ)の坊主であった薗阿上人(エンアショウニン)と親交を深め、連歌(レンガ)の腕に磨きをかける。この越前での20年近い生活で彼は盤石な人脈を築いた。これらの事実から鑑みるに、人望は十分にあったといえるだろう。更には京都に移ったのちも公家(貴族)の吉田兼右(カネミギ)、兼見(カネミ)親子と親しい間柄であったことが明らかになっている。そして何より、本能寺の変で信長を包囲した一万三千もの大軍を率いたのは、明智光秀、その人である。

政治力4

光秀は直接政治を行ったことはほぼないといえる。しかし諸国で群雄割拠する大名を支配下に置き、全国を統一する野望を持った信長が作戦立案をする際、光秀に相談をもちかけたことからも窺えるように、彼は頭脳として信長から深く信頼を寄せられていた。しかし直接手を下すことはあまりなかったため、光秀にだけフォーカスした伝記などはあまり残されず、後世に伝わるものは多いとは言い難い。

知力5

もともと単なる地方出身の侍であった光秀は偶然幕府に見初められて類いまれなスピードで昇進していく。なぜか。それは彼が非常な歌詠みのセンス高い行政処理力軍才を有していたからに他ならない。いわばマルチプレイヤーであったといってもよい。ずっと地方の辺境に身を置いていた光秀は、当然最初は足軽衆(武士と農民の間に位置する身分の低い武士)であった。しかしある日突然、晴れ舞台に立つこととなる。まず1つは貴族の間で催される連歌会への出席だ。これは地方の足軽には到底考えられない格式高い場であり、光秀も戦々恐々としたことだろう。しかし、ここで光秀は実に見事な句を6句詠み、その名を貴族社会に知らしめた。もとはと言えば彼の曾祖父も名高い歌人であり、その血を見事に受け継いだといもいえる。天性の芸術肌だ。

快進撃はとどまらない。彼は幕府の役人として仕事を始めたのち、膨大な量の訴訟問題を扱うようになる。そしてすべて裁く。その高い行政処理能力はやがて信長の目にも留まるようになる。キャリアマンとしても大変優れていた

さらに1570年(元亀元年)、織田軍と幕府軍がともに朝倉軍に戦いを挑んだときのこと。越前(福井県)に人脈と土地勘があり、戦の経験が豊富な光秀の存在は彼らに必要不可欠であった。その後に起きた姉川の戦いでは、見事織田軍は朝倉・浅井両氏を打ち破り勝利を手にしている。光秀の軍才は信長すらも唸らせるものだったのだ。

忍耐力5

彼が信長や足利義昭にその存在を認知され、日本史に大きく姿を現すのは彼が50歳を超えてからである。それまでの彼の人生は、お世辞にも華やかなものとは言い難い。むしろ苦難の連続であったといってよいだろう。幼いころから運命を共にし、固く忠誠を誓った主の毒死や、自らの一族の没落辺境での生活を20年近く強いられたことなどが、光秀にとってどれだけ辛く厳しい現実であったかは想像に難くない。しかし決して腐らず、その場その場でできることを地道に積み重ねた。その結果、高い能力を身につけ信長に見いだされていくこととなるのだ。

知られざる苦難の半生

明智城跡明智城跡:WikimediaCommonsより引用
現在の岐阜県可児市・光秀出生の地と伝わる

1516年(永正十三年)、美濃国にて生まれたといわれる明智十兵衛光秀。かつて美濃を支配下に置いた土岐(トキ)氏の家臣である明智光兼のもとに生まれる。戦国の世ではあったが、当時はまだ室町幕府が存在していた。のちの江戸幕府などと同様に、この室町幕府でも1代、2代・・・と直系家族的に将軍の位の継承が行われていた。しかし1493年に起きた明応(メイオウ)の政変。これによって足利将軍家は二分されてしまう。東軍と西軍の2つに分かれた将軍家のどちらの肩を持つか。内部抗争が光秀の身近な場所にも巻き起こったのである。光秀の仕える土岐一族は不安定な時代に突入していく。土岐氏はかつては美濃で大きな力をもち繁栄した一族であったが、このころ既に斜陽であった。

光秀はその父、祖父とともに足利東軍の義澄(ヨシズミ)を支持。同じく義澄を支持する一派の主である土岐頼純(ヨリズミ)にはじめて家臣として仕えることとなる。ここで驚くべきはその年齢である。仕えた当時光秀がわずか10歳、主人である頼純は2歳の赤ん坊であった。

はじめて家臣として仕えた主人は自分と8歳も年下。大名と御家人というよりはさながら兄弟のような間柄であったのではないだろうか。ある意味、主と家臣という立場を超えた紐帯が二人の間には結ばれていた。事実、斎藤道三との三度におよぶ戦いでも光秀は必死に主人・頼純を守り抜いたのだ。光秀が20歳の時に起こった戦いでも、12歳の主君頼純を弟のように守り抜いた。頼純もまた光秀を兄のように慕っていた。少年期・青年期の時間の多くを頼純のもとで過ごした

鷲林山常在寺(ジュウリンザンジョウザイジ)所蔵の斎藤道三像鷲林山常在寺(ジュウリンザンジョウザイジ)所蔵の斎藤道三像:WikipediaCommonsより引用

しかしこの頃になると、斎藤道三の美濃に持つ影響力はますます大きなものとなる。 土岐氏の美濃支配は、道三の登場によって危機的状況に追い込まれていく。 1544年(天文十三年)、四度目の戦いを道三に仕掛けるも敗北。 すでに美濃は道三に支配され光秀らの居場所はなかった。 その二年後に主君・頼純は道三と和睦を結び、その条件として道三の娘を嫁にとることとなった。 光秀31歳、頼純23歳のことである。 この若い主君にとって、宿敵の娘を嫁にとるという決断が苦しいものであったことは想像に難くない。 まるで弟のようであった主人のこの決断は、光秀の眼に果たしてどう映ったであろうか。

1547年(天文十六年)11月。頼純、急死。

死因は誰も突き止められなかった。斎藤道三の毒殺が疑われたが、強い支配力を持った彼に歯向かえる者はどこにもいなかった。幼少の頃から運命を共にしてきた主人を失った光秀。弟のような大きな存在を失った悲しみと喪失感がどれほどのものだったかは想像に余りある。光秀32歳でのことである。

斎藤道三らによる美濃支配は強固になる一方で、光秀ら土岐一族の居場所はなくなってしまった。美濃に彼らの支配力はもう既になかったのだ。彼は仕方なく、縁を頼りに戦国大名・朝倉氏の本拠である越前(現在の福井県)に移り、実に10年におよぶ隠居生活を送ることになる。この時すでに光秀は41歳。主人を亡くし、敵勢力に自らの本拠地も奪われ、遠く辺境の地でいつ終わるとも知れない隠居を強いられることとなった。

越前に渡った光秀。道三との四度に及ぶ戦いで経験を豊富に積んでいたため、敵征討の前線基地であった舟寄城(フナヨセジョウ)に身を寄せることとなった。とはいえ、この生活は光秀にとって非常に空虚なものであっただろう。年齢もすでに若くはない。越前に来て娘を三人授かりはしたものの、男子は生まれなかった。かつて幕府奉公衆(幕府の武力担当職)に取り立てられたほどの名門の家系は、自分の代で終わる。おまけに代々大切に繋いできた美濃の所領はもうない。非常に苦しい現実であっただろう。しかしこれが戦国時代なのだ。弱き者は滅び、強き者だけが生き残るのである。

類まれな大出世・遅咲きの戦国武将

―契機は突然にして、訪れた―

時の将軍足利13代目・義輝(ヨシテル)が京都にて暗殺される事件が起こった。1565年のことである(永禄の変)。足利幕府の存続を脅かされた大事件である。これにより足利幕府はさらに衰退。幕府を運営するために必要な人手が大きく減ってしまったため、急遽光秀に声がかかったのである。地方出身の単なる足軽に等しかった光秀が、突如として中央政治の場に転がり込んだのである。京都には室町(足利)幕府や朝廷(天皇の住まい)がある。言ってみれば当時の首都である。これは光秀にしてみればまさしく晴天の霹靂であったといえるだろう。このとき光秀実に50歳であった。

こうして1568年(永禄十一年)、遂に光秀は京都の地を踏んだ。当初は幕府の役人といえども足軽衆(アシガルシュウ)というあまり高くない地位に属していた。しかしここから光秀の驚くべき出世劇が始まる。

冒頭に光秀の曾祖父は名高い連歌の歌人であったと書いた。その名も明智玄宣。彼の名は京都の貴族の間でも広く知れ渡っており、ひ孫であった光秀が貴族主催の連歌会に招かれることの理由となった。地方出身の足軽衆に過ぎなかった光秀が、このような晴れやかな場に招待されることは極めて異例であった。しかしそんなプレッシャーをもろともせず、実に見事な詩を六句披露している。光秀の存在が貴族や上級武士に徐々に認知されはじめた。

続いて1569年(永禄十二年)の出来事である。将軍義昭の滞在する本圀寺(ホンコクジ)を三好氏が襲撃した。幕府が滅びかねない危機的状況である。このとき本圀寺に立てこもり将軍を守り抜いた十三人の侍。このひとりに光秀がいた。結果として将軍は無事であり、幕府転倒の危機は寸でのところで回避された。この光秀の活躍により将軍の光秀に対する評価は格段にあがることとなり、彼は御家人の中核を担う幕府奉公衆に大出世。光秀の地位は盤石なものとなったのだ。翌年には待ち望んだ長男である光慶(ミツヨシ)も生まれている。彼の人生が遂に大きく動き出したのだ。

信長との出会い

こうして彼は将軍義昭のもとで多くの仕事を任されるようになった。例えば大量に寄せられた訴訟処理や、朝廷の対応役である。このころになると光秀は一人で幕府と朝廷の調整役を裁くという大任を任されていた。ここに目を付けたのが信長だ。信長は当時、将軍義昭の権力を後ろ盾に付けることによって自らの権力の更なる増大を目論んでいた。つまり将軍義昭と近しいポジションにいたのだ。当然、彼は信長の目に触れることとなる。次第に、信長が戦術を考案する際には彼の相談を仰ぐようになったのだ。

―1571年(元亀二年)比叡山焼き討ち事件―

信長の残虐さを物語るうえで必ず引き合いに出されるこの事件。ここでも光秀は信長と軍事行動を共にし、大きな手柄をたてた。通説では彼は比叡山焼き討ちに反対したとあるが、実際はそうではない。それが証拠に、この焼き討ち後に彼は信長から志賀軍を与えられ、坂本城を居城にしたのだ。光秀が第一線で活躍した褒美として。

坂本城址公園における明智光秀像坂本城址公園における明智光秀像:WikipediaCommonsより引用

前述の通り光秀は幕府奉公衆として義昭に仕えていた。しかし一方で信長に重用されその結びつきをどんどんと強めていった為、このころになると両属状態になっていた。しかし結果として光秀は・・・・信長側を選んだのである。なるほど光秀は信長の家臣となれば近江坂本城主に取り立てられ、入京からわずか3年にして異例の出世を成し遂げることとなる。これは義昭のもとで奉公衆を続けていても決して叶わない偉業であったはずだからだ。

こうして美濃からはぐれた末に辺境の越前を放浪した光秀は、中央政治の舞台を経て遂に城を持つ大名にまでのしあがったのだ。このとき光秀は56歳。武将としてはあまりに遅咲きであった。

1573年(元亀四年)天下統一を目論む信長により15代将軍・義昭が京都から追放された。これにより将軍権威は失墜し、室町幕府は事実上滅亡した。義昭のもとを完全に離れ、信長に忠誠を誓っていくのだった。信長の寵愛を受け、彼の武将としての人生は満風を帆に受けて動き出したように見えた。しかしここに苦難が立ちはだかる。

光秀は天下統一を目論む信長に丹波(現在の京都府北部から兵庫県中部にまたがる地域)の平定を命じられた。当初はいとも簡単に制圧出来るものと思われたが、後々非常に時間を要することとなった。そして丹波の敵勢力に敗北を喫してしまう。しかも同じ年、戦に出向いた先で赤痢(セキリ)を患い、既に61歳を迎えた老体は生死をさまようこととなった。加えて4か月後には光秀の妻が病に倒れ帰らぬ人となったのだ。この立て続けに起きた悲劇が彼に与えた影響は計り知れない。1576年のことであった。

光秀の裏切りと本能寺の変

順風を帆に受けてようやく動き出したように見えた彼の武将人生。しかし彼と信長との間の関係に亀裂を入れる重大な出来事が起こることとなる。全ては信長の大いなる野望に起因していた。中国大陸統一である。

当時国内を統一しかけていた信長の次なる欲望は、(ミン、中国大陸の王朝)制服であった。甚だ突飛に見えるこの野望を、信長は大真面目に実行しようとしていたのだ。明に進軍するとなると、前線で戦を指揮し舵をとるのは当然、光秀らとなる。光秀だけではない。ようやく生まれた彼の息子も戦地に赴くことになる。圧倒的な明の軍力に到底敵うわけもなく、野垂れ死ぬことは自明であった。

それだけではない。信長は当時四国を支配していた長宗我部(チョウソカベ)氏を滅ぼそうとしていた。長宗我部氏と光秀は同盟関係にあり、死なれては信長政権下における明智の立場は圧倒的不利となる。

勿論光秀は信長を説得することも試みただろう。しかし信長は反論する年老いた光秀に殴る蹴るの暴行を加えるなど、到底話の通じる相手ではなかった。

そもそも光秀が本当に欲したものは、何だったか。

権力?地位?名誉?そうではない。

彼が本当に望んだものは、明智一族の将来にわたる安寧であったのだ。

既に67歳となった我が身はもう長くはないだろう。しかし、彼には守るべきものがあった。娘や息子が自分の死んだあとも幸せに繁栄していくこと。一度は潰えたように見えた明智の家系を未来に繋いでいくこと。それが男として、武将としての彼の責務だったのだ。彼が一番欲しかったものは、娘や息子の笑顔だったのかもしれない。

戦地で息子を無駄死にさせては絶対にならない。長宗我部氏という同盟がなくなればまだ幼い息子は到底やり抜いていけない。

天正十年(1582年)6月2日未明。明智光秀は信長の待つ本能寺を奇襲した。信長に腹を裂いて自害させ、寺は燃えさかった。その炎は、あかあかと京の空を染めた。

ABOUT ME
タカジュン
タカジュン
本名高野純市。政治の情報を毎日発信する学生ツイッタラー。青山学院大学在学。WEBメディアでの民間経験を経て、政治家の事務所インターン生に。その後、WebメディアPolicyを立ち上げ。政党学生部部長。

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